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「人民闘争」論の隆盛

一九六七年の衝撃によってもたらされた思想的分極化の一方は、急進的なマルクス主義に向かった。この方向性は敗戦直後に湧き起こったラディカルな現状批判の潮流に根ざしている。代表的なのが、シリアのヤースィーン・ハーフィズとサーディク・ジャラール・アルーアズムである。ハーフィズはシリアの政権を担うアラブ民主主義政党バース党の左派に属していたが、一九六六年に自ら「アラブ革命労働者党」を結成し、急進化していた。彼は敗戦後に活発に出版した論説の中で、敗戦の原因を、エジプトのナセル政権やシリアのバース党政権の「プチブルジョワジー階級に立脚した」性質と、それを覆い隠すための自称「急進的」で内実は「折衷的な」イデオロギーに求めた。

アズムは、シリア有数の名望家に生まれ、イェール大学で哲学を学んだのち、ベイルートのアメリカン大学で教鞭をとっていたが、六八年に『敗北の後の自己批判』を出版し、アラブ世界が社会・宗教・文化・倫理・経済活動などのすべての面において保守的であり、六七年の敗戦を革命に結びつけることができなかった、と批判した。一定の社会主義化が進み、「下部構造」においては変化があったにもかかわらず、「上部構造」をなす思想面の変化に結びついていないという問題意識から、アズムはアラブ世界の思想の批判に着手する。六九年の『宗教思想批判』では、アラブ人の「宗教的・超自然的心性」が痛烈に批判された。これらの批判は、マルクス主義的階級史観に立ち、真の問題である階級闘争を「人民」の目から覆い隠すイデオロギーを排撃するという問題意識を持っていた。

ここから「人民闘争」による「世界革命」に役割を果たすことをアラブ民族の新たな使命へと潮流が発展してゆく。現在では、マルクス主義の枠組みの中での「階級闘争」や「人民」の意味合いが、必ずしも自明ではなくなっている。そこでまず、マルクス主義的な階級史観の概念と枠組みについて略述しておきたい。マルクス主義では、歴史は発展法則を持ち、必然的に段階を踏んで発展していくと考える。発展段階を性格づけるのが、各段階特有の「生産関係」の応じ方によって異なる階級支配のあり方である。歴史の出発点に理想化して想定される原始共産制においては、階級は存在しなかったものと考えられている。それが私的所有権が成立したことにより、支配・従属による生産関係とそれにもとづく階級関係が成立する。古代であれば貴族と農奴の、中世では封建領主と農民の近代資本主義においてはブルジョワ資本家と労働者の関係が主軸となる。このような階級関係による段階を踏んで、歴史は発展する。それぞれの段階で矛盾があり、矛盾を解消する階級闘争が歴史発展の原動力とされる。

最終的には人民階級が勝利し、無階級社会が再び到来するというのが、階級史観の想定する未来像である。人民闘争論の具体例を検討する際に確認しておくべきことは、このような歴史発展の法則の中に現実を位置づけることが「科学的」な認識方法であるという認識が、七〇年代の世界各国で、共産主義運動のサークル内はいうに及ばず、社会科学・歴史学の学界で支配的な地位を占めていた、ということである。この枠組みを採用した社会科学・歴史学研究者は、特定の時期の特定の国が、この「科学的」な発展のどの段階にあるのかを「認識」し、「位置づけ」ることを、研究の中心的課題としていた。そして、この「認識」し「位置づけ」るという作業が、政治的意味を持つものとされていたのである。生産関係のような「下部構造」の発展と科学的認識のような「上部構造」は、並行して発展すると考えられていた。

すなわち、「プチブルジョワ階級からプロレタリアート人民階級への支配の移行過程」に到達していなければ、その人民も自らの階級を意識し、その使命を理解することもできない、とされていたのである。逆にいえば、そのような階級意識が得られた場合ぱ、支配階級の交代が近いか、今まさに起こっている、ととらえられた。つまり、そのような階級意識を持ち、プチブルジョワジーとプロレタリアート人民の階級闘争を認識すること自体が、階級闘争を一歩進める(あるいは進んだことの指標となる)重要な政治的営為とみなされていたのである。アラブ世界の人民闘争論は、この枠組みの中でアラブ世界の現状を認識し、その位置づけを行った。一九六七年戦争後のアラブ世界を、この階級闘争の最終段階にまさに移行しようとしている瞬間と、とらえた。この立場に立つアラブ知識人の、同時代の状況の認識と将来のヴィジョンは、マフムード・フサインの『エジプトの階級対立』に典型的にみられる。

アラブの思想
社会主義的人民闘争論とイスラーム民族主義の狭間で苦悩、やがてはオカルト的終末主義に一つの流れを見出すアラブ民族の現代史を取り上げる。

汎アラブ主義 - Wikipedia
理論的には社会主義にアラブ独自の民族主義が混ぜ合わされたものである。

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三〇〇万人に三三の言語

人口の一五パーセントを占めるマレー系はマレー語を日常的に使っているため、マレー語が彼らの母語といえるが、華人(人口の七六パーセント)、インド系(六・五パーセント)は、華語やタミール語が母語とは限らない。なお、ここでいう母語とは、日常的に両親との会話に使用する言語のことである。一九八〇年の統計によれば、家庭で両親との会話に華語を使う華人の割合はわずか七・四パーセント、英語を使う割合は五・四パーセントにすぎない。華人の八六・八パーセントは祖先の出身地である中国各地の方言を使用しており、福建語が三六パーセントと最大で、潮洲語、広東語と続く。これらの方言は華語とは全く通じないし、また相互にもほとんど通じない。このような言語状況は、日本に住む我々にはなかなか実感がわかない。

日本各地の方言と同じように華語や福建語、広東語を考えると大間違いで、日本語と韓国語と中国語が一つの社会に共存していると思った方が実態に近い。それほど通じないのである。わたしは、シンディの家族との会話に少しでも加わりたくて、『福建語初級入門』というテキストとテープを買ったが、華語とは発音が全く異なるのには驚いてしまい、わずか一日で福建語をあきらめたことがある。つまり、福建省や広東省といった南方の出身者がほとんどのシンガポール華人にとっては、華語は英語同様に外国語なのである。インド系の場合も、ダミータ語を母語とする者は半分以下で、多くはインド諸州の言語を日常的に使っている。タミール語と他のインド各地の言語も全く相互に通じない。このように全く相互に通じない言語が、シンガポール全体で実に三三以上(話し言葉を含む)使われているといわれている。この多様な言語状況を「体験しよう」と思ったら、バスに乗ってあちこちを回ってみるとよい。まず、バス内には四種類の公用語で禁煙などの注意奸書かれている。

バスの乗客は多種多様な言葉を話しているはずだ。市場に行くと、売り子は客の顔を見て華語かマレー語、カメラをさげた観光客なら英語で話しかけてくる。シンガポールの人々は日常生活において、常に相手の顔を見ながら相手が何語を話すのかを考えなければならない。人口三〇〇万の小さな社会におけるこのような言語の多様性は、国民相互の円滑な意思疎通を阻み、一体感の成立に大きな障害となっている。独立以来、いかにしてこの多様な言語状況を克服して、円滑に意思疎通を行なえるシステムを作るかは政権担当者の大きな課題であった。一九五九年仁自治権を得たシンガポール政府の言語政策は、四言語を平等としながらも共通語としての英語を重視することであった。英語を重視した理由は、第一に英語が国際語であり、科学技術の言語であること、第二に植民地時代からの諸記録、行政、司法の連続性を保証できること、第三に華人、マレー系、インド系の各グループにとって中立的言語であり、共通語として適していること、第四に外国人投資家の用いる言語であること、と説明された。

しかし、すでに述べたように、英語がリー・クアンユーら党指導者の母語であったこと。つまり、華人は英語と華語を、マレー系は英語とマレー語を、インド系は英語とダミータ語を習得することが推進されたのである。その目的は次のように説明された。「英語は、民族相互間の理解と、諸外国とくに先進諸国からの知識・技術の導入、それら諸国とのコミュニケーションの道具として習得させる言語、他の言語は、民族的アイデンティティーの保持と文化的遺産の継承を可能にさせる言語である」この二言語政策は、建前としては四言語平等であるが、高等教育の授業言語が英語に切り替えられるなど、実質的には英語重視であった。言語政策転換と独立直後からの外資導入を柱とした輸出指向型経済政策によって、英語の経済的価値は高まった。

それにつれて、英語校の生徒数は激増し、非英語校生徒数は減少の一途をたどったのである。英語校出身者の就職の有利さと所得の高さも顕著になってきた。言語別小学校の児童数の推移をみると。一九六五年には、英語校の児童数は全体の約半分であったが、七五年には七〇パーセントを超え、八四年には九六・三パーセントにまで達した。これに対して、華語小学校は、六五年には全体の三五・一パーセントの児童が学んでいたが、七八年には二〇パーセントを割り、八四年には三・七パーセントにまで減少した。マレー語小学校の児童数となると、六五年の七・九パーセントから八四年にはゼロとなり消滅してしまったのである。タミール語小学校も同様で、八〇年には入学児童がいなくなってしまった。政府はこのような非英語校の児童数激減を理由に、一九八七年度からはすべての小学校を英語校とし、英語を第一言語に位置づけることを発表した。

シオニズム運動

ユダヤ人たちは世界各地に居住し自分たちの国を持っていなかった。18世紀までのヨーロッパ・キリスト教中心の世界においてユダヤ人たちはさまざまな形で迫害を受けてきた。例えば、帽子やユダヤの星のバッジの着用を強いられた。ゲットーと呼ばれる地区に居住させられた。このような状況のあと、1789年のフランス革命は身分制社会に終止符をうち国民という新しい集団を誕生させた。個々の国民は身分や民族・宗教などに関係なく国民として平等な義務と権利を有することができるようになった。1871年にはユダヤ人にもヨーロッパで初めて市民権が与えられた。ユダヤ人にとって、市民権が与えられたことは喜ばしいことであったが、一面ではユダヤ人としてのアイデンティティをどのように維持するのか複雑な思いも同時に抱いたようである。19世紀に入りヨーロッパ各地で民族主義が台頭した。

1894年のドレフェス事件はそのような時代に起きた出来事であった。フランス軍のドレフェス大尉がドイツに軍事秘密を漏洩したというスパイ疑惑事件であった。彼がユダヤ人であったために反ユダヤムードが拡大したのだった。ユダヤ人ジャーナリストであったヘルツルは1886年に『ユダヤ人国家』を著し、ユダヤ人国家建設こそがユダヤ人を解放するものであると主張した。1897年に最初のシオニスト会議がスイスのバーゼルで開催された。ユダヤ教の聖地であるエルサレムのシオンの丘に帰ろうという運動がシオニズム運動であり、その運動家たちがシオニストと呼ばれるようになった。「土地なき民に、民なき土地を」がシオニストたちのスローガンであった。シオンの丘には民がいないわけではなく、パレスチナ人(アラブ人)が住んでいたのだが。イギリスはシオニズム運動を支持し、オスマントルコの領土に第一次大戦後にユダヤ人たちがホームランドを作ることを支援するというバルフォア宣言を発した(1915年)。ユダヤ人たちのパレスチナへの移民が次第に増加していった。

ユダヤ人たちが増えるにつれてパレスチナ人との対立が激しくなった。それでも初期の移民に対してパレスチナ人たちはさほど拒絶反応を示しかわけではなかった。あるものはユダヤ人に土地を売却しているのである。1947年当時のユダヤ人の比率は3分の1程度に達した。ユダヤ人とパレスチナ人の対立が激化するなか、イギリスは委任統治を放棄しパレスチナの地の扱いを国連に委ね、1947年11月29日に国連総会はパレスチナ地域をユダヤ人の国とアラブ人の国に分割するという「パレスチナ分割決議」を採択した。その内容はパレスチナ全土の55%を少数派のユダヤ人国家、残りの45%の土地をアラブ人国家とし、エルサレムとその周辺は国際管理とするものであった。ユダヤ側はこの決議を受け入れたが、アラブ側は拒絶した。その翌日、ユダヤ人のバスがアラブ人に攻撃を受けることになり、ユダヤ人はこの日から「イスラエル独立戦争」が始まったとしている。1948年5月14日にイギリス軍の撤退が完了したが、その日に、ユダヤ側はベングリオン(初代首相に就任)がイスラエルの建国を宣言した。アラブ側(レバノン、シリア、ヨルダン、エジプト、イラク)は、即戦闘態勢に入り第一次中東戦争が始まった。この戦争はイスラエルが勝利しパレスチナ全土の75%を支配下に置いた。

アラブ側か大幅に国土を失ったが、エルサレムは東西に分割され東の旧市街はかろうじてヨルダン軍が確保した。イスラエルの支配下に陥った土地のアラブ人たち約75万人がヨルダン川西岸、ガザあるいは周辺のレバノン、シリア、ヨルダンなどに流出し難民となっていった。中東戦争はその後も第二次、第三次、第四次と繰り返すことになる。第二次中東戦争はスエズ運河の国有化に端を発した。アメリカからアスワンーハイダムの建設資金援助の中止を宣言されたエジプト大統領ナセルはダムの建設資金を調達するために1956年にスエズ運河の国有化を宣言した。イギリスとフランスはまずイスラエル軍をシナイ半島に侵入させておき、エジプトとイスラエル間の戦争からスエズ運河を守るという口実でポートサイドに上陸し、運河地帯を占領した。しかしながら、アメリカとソ連がイスラエル、イギリス、フランスに撤退を迫り、撤退を余儀なくさせられた。これ以後、中東地域の国々に影響力を行使できるように米ソが互いに競い合い、両国は中東政策を強化していった。一方、エジプトのナセル大統領は1958年にエジプトとシリアでアラブ連合共和国を結成したのである。第三次中東戦争は別名を「六日問戦争」という。

1967年、エジプト軍がアカバ湾を封鎖した。アカバ湾を封鎖するということはイスラエルの紅海への出口を塞ぐということである。イスラエルは戦線布告とみなし、エジプト、ヨルダン、シリアを攻撃し、この戦争は6日間で終止符を打った。イスラエルの圧勝であった。この戦争に至る期間にはシリアがイスラエルの水源であるガリラヤ湖の水を断つというような戦術も展開された。アラブ側にもエジプトとヨルダン関係の亀裂など複雑な様相が多く噴出していた期間である。第三次中東戦争により、イスラエルはスエズ運河までのシナイ半島、ヨルダン川西岸のパレスチナ、それにシリアのゴラン高原をも支配下に置いたのである。イスラエルは占領地にユダヤ人を入植させていった。この入植政策を積極的に推進したのが、2005年12月に脳梗塞で倒れたシャロン首相であった。ユダヤ人にとってパレスチナの地は神から与えられた「約束の地」であり、そこに帰ることは入植者にとって当然のことだとの想いであった。

山地に生きてきた女の末期

モクー・ノーの母と兄が、「そのうちまた獲物があるよ。雨季が明けたら、思う存分に山を駆け歩けばいいじやないか」としきりになぐさめの言葉をかけた。夜、一昨日から収穫しはじめたモクー家の早稲の新米を、みんなで初めて食べることになった。熊肉のあてがはずれたので、鶏を一羽つぶしてお粥といっしょに煮て、サトイモとカボチャの蔓とクルミとマクリーとラタン(ヘチマを小さくしたようなウリ科の実)を入れた汁をおかずにした。ラポー葉につつんだ飯と鶏粥と竹の椀についだ汁が、車座になったみんなの前に置かれた。「エーツ、今年もさいわい新米を食べることができたよ。雨季ももうじき終わって、実りの季節に入り、乾季になるよ。マラリアやいろんな病気も消え去り、ひもじい思いの毎日もこれで過ぎ去ることだろう。エーツ、過ぎ去ることだろう」来合わせて座に加わった年輩のプンナム・チャンさんが、いかにも自然にロをついて出たという風に、一節ずつ節をつけて唱えた。伏し目がちに、とつとつと語りかけるようなしわがれ声だった。

なんとなくすぐに手をつけずにいた一同も、それを聞いてゆっくりとご飯を右手でつまみ、口に持っていった。無口な中年男のラオショー・ガムさんも、うつむいて同じ文句をつぶやいている。しみじみとした空気が流れる。てれくささをかくすように、モクー・ノーやニンティン・ジャー・タンさんらは、「熊を仕留めそこなったのはいかにも惜しかったよ。熊の胆も取りそこなったなあ」とにぎやかな声でしやべりだした。家族も客もご飯をほおばる。わたしも同じようにして、新米をかみしめる。二月に林を伐り開いてから七ヵ月目にして、初穂の新米を味わう思いの深さは、村人にしかわからないものだろう。それは森におおわれた山からの贈り物である。この地では一〇〇年も一〇〇〇年も前から、人びとがこうして毎年、焼畑の新米を味わい合う夜をすごしてきたのだなあ、と思った。

その夜というのは、人間たちの糧となってきた稲たちも、おそらく共有してきた夜にちがいあるまい。九月七日、モーウン村から、「死者が出たことを告げ知らせる使者」(ラスー・スー・アイ)がやって来た。昨夜、ブルー・ジャ・ロイさんという四三歳の婦人が、マラリアを長わずらいしたあげく亡くなったという。「体の弱りきっていたはずの病人が何日か前、不意に起きて水浴びをして、今年の稲のできぐあいを見たいと焼畑に行ってきたのは、死期をさとっだせいだろうか、不思議なことだ」という使者の言葉に、村人たちはうなずき合った。死を前にせめて体をきれいにしておきたい、という女性の心根が哀しみをさそう。今年も順調に穂をそろえてきた稲の茂る光景を、この世の見おさめにまぶたに焼きつけておきたかったのだろうか。それとも、その日ふと病から立ち直れそうなきざしを体の奥に感じて、どこからとも知れぬ透き通った力にうながされ、無意識のうちに水を浴び、焼畑の稲のもとへ導かれたのかもしれなかった。

もっとも、それこそ死期をさとるということなのかもしれないが。山地に生きてきた女の末期の眼に、焼畑のむかしもいまも変わらぬ光景はどのように映ったのだろうか。「ほら、村に帰ってきた日、ここに着く前にモーウン村でひと休みしたのをおぽえてるかい。あのとき、ちょっと上がって白湯を飲ませてもらった家だよ。囲炉裏のそばに寝ていた人だ。顔色も悪くてやつれていたけど、死んでしまうとは思わなかったなあ」ため息にも似たモクー・ノーの言葉に、一五日前、たしかに薄暗い家のなかで、小さな火が揺れる囲炉裏のそばに横たわっていた婦人の姿を思い出した。顔立ちは思い浮かばないが、上半身をもたげて、モクー・ノーと二言三言交わしたとき、長い黒髪の下に細面の白い顔が力なく揺れたのを記憶している。薄い毛布をかけたその体はか細かった。その夜、雷が山脈上空から飛び出して、暗黒の空を稲妻が切り裂いた。天響に風と雨が追いすがった。屋根が破れそうなくらい激しい雨音が家をとりまいた。

村ごと川に押し流されはしまいかと思うほどのどしゃ降りだった。モーウン村の死者の家も雨しぶきにつつまれ、長い通夜をすごしていることだろう。翌朝、霧雨が残るなかを、モクー・ノーとナオカオ・ガムさんらが葬式の手つだいに出かけた。キリスト教徒(カトリック)の家なので、神父が来て聖書を読み、みんなで祈りをささげるらしい。モクー・トウー・ルムとモクー・ガムさんの妻と息子のプラン・ションは焼畑へ行った。昼朋、今度はノラン村から使者が来た。昨晩まだ寝つくには早い時刻、ラピエー・ノーさんの次男で六歳くらいのノ・ン・マイが、マラリアのため病死したのだという。急いで歩いてきた、片目が斜視の青年とやせて腹だけ出た少年はモクー家に上がり、出された水をごくごく飲みほした。

アラブ現実主義のプロファイル

現在のところ、急進的なマルクス主義も、イスラーム主義の「運動」やその過激な形態も、アラブ世界の問題を解決するどころか、むしろ問題の一部と化してしまったようにみえる。このような強烈なイデオロギーを擁する勢力を社会に抱えつつ、国政の困難な舵取りを行っていく人々の思想にも目を向けておきたい。レバノンの政治学者ポール・サージムは、著書『苦い遺産-アラブ世界のイデオロギーと政治』(一九九四年)で、アラブ世界がついに「イデオロギーの終焉」の時代に入ったのではないかと論じる。「イデオロギーの終焉にとは、もともとダニエル・ベールによって一九五〇年代の欧米の思想状況に関して用いられた分析概念である。サーリムは、これをアラブ世界に応用している。サーリムは、第ニ次世界大戦後のアラブ諸国の独立を基点として、八〇年代来に至るアラブ思想史を通観する。

そこではアラブ民族主義や、その失墜による分極化が生んだ急進的なマルクス主義やイスラーム主義といったさまざまなイデオロギーが、アラブ世界の政治社会を動かす重要な要因でありつづけた。いわば「イデオロギーの時代」を経験してきたという。そしてサーリムはこれらのイデオロギーがことごとく失敗に終わったと結論づける。どのイデオロギーもアラブの政治共同体をはっきりと定義すること、アラブ諸国の政権に正統性の根拠づけをすること、政治的な相互作用の枠組みを形作ること、共通の政治目標を設定すること、などといった課題への取り組みに失敗したという。そのうえで、現代のイスラーム主義の動向はこのようなイデオロギーの時代の終焉が近いことを示しているのではないかと展望する。「アラブの統一」「人民闘争」「イスラーム的解決策」といったスローガンに顕著な「アラブ世界の危機的状況の原因を出来合いの少数の諸原則に還元して済ましてしまう単純な抽象的思考法」や、「ほんのいくつかの問題さえ正されればすべてはうまく運び、ユートピアが出現すると論じる楽観主義」が無効であるということが明らかになってしまった。

そしてサーリムは、イスラーム主義のように何かに対する「アンチテーゼ」としてのみ自らを提示するイデオロギーが登場したことに着目する。イデオロギーの時代の最終段階に現れるアンチテーゼ主体のイデオロギーとして西欧のファシズムを分析した仮説にもとづき、イスラーム主義がアラブ世界の諸イデオロギーの棹尾を飾るものとなり、よりプラグマティックな政治が行われる時代が近い将来に到来する、という可能性をサーリムは示唆する。サーリムの認識が妥当なものであるか否かは、今後の歴史の展開によって判明するだろう。サーリムは、パレスチナ問題や宗派対立といったイデオロギー的な発火点から始まったレバノン内戦(一九七五-一九九〇年)がやっと終結したという状況下で、この著作を著している。イデオロギー的な政治が内戦の惨禍をもたらしたという切実な反省の上に立ち、「よりプラグマティックな政治を今後は行ってゆくべきである」という意思表明、あるいは「そうなるはずだ」という希望的観測によって、現状認識が制約されている可能性はある。

しかし、サーリムのいう「よりプラグマティックな政治」の担い手がアラブ世界に育つ兆しがみえることも事実である。現在のアラブ各国の権力エリートの間では、イデオロギーをできるだけ排除し、問題をプラグマティックに処理する姿勢が共有されるようになっており、言論の場でその姿勢を積極的に表明する事例も目立ってきている。ここで「アラブ現実主義」あるいは「アラブ・プラグマティズム」などと呼ばれることもあるテクノクラートの思想を、代表的な人物のプロファイルのスケッチによって、その雰囲気だけでも伝えておきたい。エジプトでは、ウサーマ・アル・バーズやムスタファー・アル・フィキーといった大統領側近が代表的である。バースは一九三一年カイロに生まれ、カイロ大学を卒業後、ハーバード大学で法学博士号を取得した。五八年から外交官としてのキャリアを積んだが、バースが政治的な重要人物となるきっかけは、七七年のサダト大統領のエルサレム訪問と、翌年のキャンプ・デーヴィッド会談である。彼はエルサレム訪問に同行し、キャンプ・デーヴィッドでは実務交渉を一手に引き受けた。

当時エジプトの外交担当国務大臣で後に国連事務総長になったブトロス・ブトロス・ガーリー(彼も「アラブ現実主義」の一人といえるかもしれない)は、著書『エジプトのエルサレムへの道』で、次のように回顧している。エジプト、アメリカ、イスラエルの代表団メンバーはもう交渉に参加していなかった。多くの者が自分も密接に関与したと主張したけれども、実際には交渉はカーターとバースとアーロン・バラクの間で行われていた。バースはムバ・ラク政権では筆頭外務次官と大統領補佐官を兼ね、アメリカとの交渉の窓口となった。国際会議では、影のようにムバ・ラク大統領の後ろに付き添っている。エジプトがアメリカ・イスラエルとアラブ世界との間を取り持つ外交交渉能力によって地域大国としての地位を維持し、アメリカからの軍事・経済援助を呼び込んで経済発展の原動力にしている背景には、バースをはじめとするリアルポリティークを熟知したテクノクラートの存在が欠かせない。アメリカとのパイプを背景にアラブ世界で主導権を握り、アラブ世界での指導的地位を背景にしてアメリカから特別な待遇を勝ち取る、という巧みな戦術である。

極めて少ない難民認定者数

2002年5月、中国・瀋陽の日本総領事館へ北朝鮮から逃げてきた人たちが保護を求めて駆け込んだ。この事件が大きく報道され、人々の関心をひいたことをきっかげに日本の難民(亡命者)保護の態勢についての議論がさかんになった。日本は難民の地位に関する条約(難民条約)およびその議定書を批准しており、日本国政府は「国籍・人種・宗教・その属する社会的集団、そして政治的意見の故に、国籍国に帰れば迫害を受ける恐れが十分にある」と認められる人は難民(条約難民・政治亡命者とほぼ同義)としてこれを庇護する責任を負っている。ところが日本の難民認定者数は、同じ条約を批准している欧米各国に比べて極めて少ない。欧米諸国がおしなべて年間数千から一万を超える人々を難民として認定しているのに、日本ではせいぜい20数人、年によっては二桁に達しないこともある。

そのなかで、ビルマ国籍者の難民認定者数の比率は高い。2001年、2002年の数字を見ると認定者の半数以上はビルマ人である。1988年の民主化闘争後、ビルマから多くの若者たちが日本へやって来た。大学封鎖の時期が長く続いたから、とりあえず日本へ来て、それから学ぶ方法を考えようという人たちがいた。軍事政権は市場経済体制への移行を図ったものの、経済発展ははかばかしくなく、職場は限られていたから、働き場所を求めてくる人たちもいた。なかには、民主化闘争に参加したために、あるいは軍事政権成立後も反軍事政権的な活動をしたために、当局にマークされ、逃れるように日本へやって来る人たちもいた。ビルマにいた当時から民主化にかかおる人たちはもちろんだが、日本へ来てから、在日のビルマ人民主化団体に加おったり、デモや集会に参加することで、日本でアンテナを張っている大使館から目をつけられる人もいる。

こうした人たちのなかから、「母国へ帰れば尋問され、投獄され、時には拷問を受ける恐れがある」との理由で日本政府に難民認定を申請する人たちが出てきた。ビルマ人難民認定申請者は、ほかの国からやって来た申請者たちに比べて運が良かったといえるかもしれない。日本の難民認定の固い扉をこじ開け、本来の主旨に沿った、つまりは人道的な、人権を最優先する難民認定にしていかなければとの熱意を持つ弁護士たちが、ビルマ人たちを応援してくれた。在日ビルマ人難民弁護団(渡遺彰悟事務局長)である。さらには、ビルマ民主化をめざして、日本人も、ビルマ人も、ほかの外国人も、ともに活動を進めようとのスローガンを掲げる市民団体・ビルマ市民フォーラムも、ビルマ人難民認定申請者たちを積極的に支援した。しかし、いうまでもなく一番がんばったのはビルマ人である。収容され、退去強制令が出ても、絶対に帰らないと意志を貫いた人たちがたくさんいた。一度、難民認定を拒否されても、ほとんどの人が異議申立てを行なった。二度拒否されても、難民不認定取消し訴訟に持ち込んで粘り強くたたかった人たちも少なくない。今もいる。申請中の人、異議申立て申の人、法廷闘争になっている人とさまざまである。

ここではまず、時間はかかったが、比較的すんなりと難民認定を勝ちとったビルマ人を紹介する。ビルマでなにをしてきたのか、日本でなにをしているのか、2002年5月「恋するアジア」にシュエバの名前で寄稿したエッセイから読み取っていただきたい。バンコクの中心街、そごうデパートのすぐ隣り、大通りが交わる四つ角に面した一角に、頭が三つある象の立像が鎮座する祠がある。エラワンである。エラワンの祠はあちこちにあるのだろうが、エラワンときいてまず思い浮かぶのは、このバンコク中心部のものである。三つの頭を持つ象はもともとインドラ神の乗り物だそうである。とすると、ヒンズー教が起源であろうが、タイでは守護神、あるいは霊験あらたかなものとして尊崇されているのかも知れない。善男善女とりまぜてお参りの人がっぎっぎとやって来る。

商売繁盛、家内安全、学業成就から、宝くじの当籤祈願まで、さまざまな庶民の願いをエラワンはきき届けてくださるという。願いはなんであれ、敬虔な祈りが捧げられる。パゴダのような静かな、広い場所はない。座り込んでお祈りしたりはできない。合掌をしてすぐに立ち去ることになる。あわただしくはあっても、祈りの飛び交う空間にはそれなりのゆったりした時間の流れが感じられる。目の前の大通りを自動車の列がけたたましく駆け抜けて行く。その道路とエラワンとを、線香の匂いと人々の祈りがカーテンのように仕切っているようで、別世界の趣がする。時に、満員の客を乗せた路線バスが通り過ぎる時に、運転手がほんの一瞬だが、両手をハンドルから放し、エラワンに向かってワイ(合掌)するのを見かけると、さすがにドキッとはするが。1988年の夏、しばしばエラワンの前に立ち止まり、どんぐりまなこを見開いて象を睨み据えているひとりの男がいた。男の名はソウウィン、民主化闘争まっさかりの隣国ビルマから、バンコクへやって来ていた。ソウウィンの両親は二人とも医師、ビルマでは極め付きのインテリであり、社会的地位も高い。

恵まれた家庭に育ったソウウィンは「坊っちゃん」さながらに血の気の多い青年に成長した。まだ大学生だった1973年と74年、軍人主導の政治に労働者たちが不満をもち、決起してデモを行なった際に、これに参加し、軍の発砲を受けて、右手を負傷した。軍情報部(MI)に拘束され、弁護士もいない15分ほどの裁判で禁固7年の刑をいい渡された。悪名高いインセイン刑務所からは、恩赦を受けて3年で釈放されたが、大学への復学はかなわなかった。逮捕歴の故に就職もままならなかった。そして、1988年、ビルマ全土に民主化運動の波が広がった。血気にはやる息子がもう一度捕まれば、命すら危ないと心配した両親は八方手をつくしてソウウィンを外国へ逃す。バンコクを経て彼は日本へ到着する。日本でもソウウィンは母国民主化をめざすビルマ人の組織に加わり、活動を続けた。

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少子高齢化とストレス社会

開発経済学の教科書では、発展途上国の人口問題は「人口爆発」という表現でしばしば説明される。これは、経済発展がまだ進んでいない国が「多産多死」の状態から、保健や医療の発達、人口抑制政策などの成果によって幼児死亡率が劇的に低下し、「多産少死」の状態に移行し、人口増加率が急激に上昇する状態を指す。ところが、経済が発展していくと、教育投資の重視や晩婚・非婚の増加などの理由から子どもの数が減り、他方で平均寿命がのびるために、「少産少死」そして少子化・高齢化が進んでいく。これを人口学では「人口転換」と呼んでいる。以上の推移を、タイを事例に人口ピラミッドで描くと、図のようになる。図は右に女性、左に男性をとり、五歳刻みの年齢階層別人口をマッピングしている。年齢は上にいくほど高くなる。

人口ピラミッドは、多産少死の時代には「富士山型」のかたちをとり、少産が進み平均寿命がのびていくと「釣鐘型」、そして「つぼ型」へと移行することが知られている。タイの人口構成は、人口学の教科書が示すモデルどおりに推移し、しかも先進国の過去の経験よりも早い時期に始まり、そしてより早いスピードで進行していった。ここでは、タイの人口を国際基準にしたがって、①○歳から一五歳未満の年少人口、②一五歳から六五歳未満の生産年齢人口、③六五歳以上の高齢人口の三つのグループに分けて、その推移をみておこう。一九八〇年、二〇〇〇年、二〇二五年の三つを基準年にとり、それぞれの年齢グループの比率を求める。国際基準にしたがえば、高齢人口が全人口の七%を超えると、その国は「高齢化社会」に達し、一四%を超えると「高齢社会」に入ったと判断する。

日本のように高齢人口が二〇%を超える場合には、「超高齢社会」とも呼ばれる。なお、六五歳以上を高齢人口と捉えるのは、国連の報告書『人口高齢化とその経済社会的含蓄』(一九五六年)によっている。ただし、タイの一九九七年憲法(第五四条)では、六〇歳以上を「高齢者」と定義し、国がその生活を保障する義務があることを明記しているので、注意を要する。国際基準の定義にならうと、タイは二〇〇一年に「高齢化社会」の時代に突入した。そして、二〇二三年には「高齢社会」に入ることが予測されている。日本が高齢化社会に入ったのは一九七〇年、高齢社会に入ったのは九四年である。これにかかった期間(倍化年数と呼ぶ)の二四年は、過去の先進国のいずれの場合よりも速かったため、世界の関心を集めた。しかし、タイの倍化年数はこの日本の記録を上回る二二年である。

なお、韓国の場合には、タイよりももっと速く、高齢社会の出現は二〇一七年が見込まれている。タイが直面している大きな問題は、高齢化の動きがバンコク首都圏ではなく、地方においてより速く進展しているという深刻な事実である。例えば、マヒドン大学などの推計によると、二〇〇五年現在、六五歳以上の高齢人口の比率は、バンコクの五・七%(九・二%)に対して、東北部は六・四%、北部は八・二%(四・五%)であった。バンコクの比率が相対的に低いのは、就学、就職、求職のために、地方からバンコクへ若い世代がっねに移動するからである。タイの農民には、当然ながら公務員のように「六〇歳定年退職」といった制度はない。元気なあいだは働き、身体が弱くなれば隠退し、家族や地域住民の世話になるというのが一般的であった。しかし、平均寿命が七三歳を超え(二〇〇七年現在)、憲法が六〇歳以上で、かつ十分な所得のないひとびとに対して、その生活を保障すると宣言した以上、地方や農村における高齢者の面倒をだれがみるのかという中進国的問題が、政策課題として浮上せざるを得ない。

高齢化と並行して少子化のほうも急速に進んだ。女性の合計特殊出生率)一人の女性が生涯に産む子どもの数)は、一九五〇年代後半は六・四であったのが、七〇年代後半には四・〇へ、九〇年代半ばには二・〇へと急速に低下した。現在は一・七と先進国並みの水準にまで下がっている。このような急速な低下を促した背景は、次の三点に求めることができるだろう。第一は、タイ政府による徹底した人口抑制政策、とくに産児制限政策である。政策を指揮したミーチャイ・ウォ・ラウィタヤは、「ミスター・コンドーム」の名前で世界的に知られた。人口抑制政策は現在も続いており、保健省の調査によると、いかなる産児制限もしていないと回答した世帯は全体の四分の一で、残りの世帯はピル使用、コンドーム使用、避妊手術の三つのどれかを採用している。

第二は、女性の社会進出の拡大とそれに伴う晩婚や非婚の増加である。女性の平均初婚年齢は、一九六〇年の二二歳から二〇〇六年には二五歳にのび、一〇〇〇世帯あたりの結婚登録数は、八一年の三七件から二〇〇六年には二〇件にまで低下した。バンコクの若い世代の間では、「結婚するなら遅い方が、子どもを作るなら少ない方がよい」という新しい家族観が広まりつつある。第三は、教育コストの上昇と両親の教育投資に対する関心の高まりである。次節で述べるように、少しでも高い教育を受けさせたいという親の気持ちは、都市部だけでなく農村部でも強かった。そこで、子どもの数を減らすことで、子ども一人にかける教育投資の額を少しでも引き上げようとした。以上の理由、とりわけ第一と第三の理由から、タイではほぼ全国の県で、出生率は二・〇以下の水準に低下するという、地域差のない状況が出現した。

タイの工業化パターン

NICSに近い概念として、最近では新興工業経済群、つまりニーズ(NIES)という言葉もよく使われる。NIESの使用は、一九八八年六月、カナダのトロントで開かれた先進国サミッ卜での提案に端を発する。その趣旨は、台湾や香港を国に含めるのは不適切だから「経済群」に変更しようというもので、中国に対する政治的配慮が働いていた。しかし、NIESを単なるNICSの名称変更ととらえるのは実情に合わない。というのも、タイにおける工業化パターンの特徴を明らかにするため、韓国・台湾の経験についてあらかじめ整理しておきたい。韓国、台湾、タイのあいたの輸出上位五品目(グループ)の推移を整理したものである。意外かもしれないが、一九六〇年には、韓国の輸出総額はタイの一〇分の一にも満たなかった。

また、主要輸出品をみても、韓国は鉱産物や海産物、台湾も砂糖やバナナなどの一次産品が大きな比重を占めていた。輸出構成が大きく変わるのは、一九六〇年代後半あたりからである。まず台湾が先行し、繊維製品や電機・電子部品、雑貨類の輸出を伸ばした。ついで韓国も、一九七〇年代初めから綿織物や衣類(ガーメント)、半導体素子など電子部品の輸出を急増させていく。二度にわたる石油危機によって多くの国が不況に陥っていた一九七〇年代、韓国・台湾は、年率三〇%をこえる驚異的なスピードで、輸出拡大を実現していった。この労働集約型工業製品の輸出急増をうながした大きな要因は、日米の電機・電子企業や日本の繊維企業の現地進出と、低賃金労働力の結合であった。

同時に、現地政府の輸出奨励政策や輸出加工区の設置、外資優遇措置も輸出拡大を助けた。工業製品輸出の拡大は、韓国・台湾の製造業の高い成長を牽引する駆動力となる。ラテンアメリカ諸国などが実施してきだ国内市場向け輸入代替工業化と対照させて、彼らの経済発展戦略を「輸出志向型工業化」と呼ぶのは、そのためである。より重要な点は、こうした外向きの経済が、就業人口に占める農業の比率を大きく低下させ、逆に製造業のそれを上昇させたことである。通常、狭義の経済発展は製造業部門の付加価値額と雇用の増加の二点で測るが、韓国・台湾の経験が、以上の定義に合致していることがわかる。それではタイの経験はどうだったのか。

たしかにタイでも、輸出の年伸び率は一九七〇年代に二五%に達し、GDPに占める製造業の比率も傾向的に上昇していった。輸出総額に占める工業製品の比率も、一九六一年の三%から七五年には二八%へと、大きく伸びている。しかし、一九七〇年代にタイで伸びた輸出品は繊維・電子製品ではなく、農産物・鉱産物やその加工品である。注意すべきは、収穫される砂糖きびは農業品であるが、製糖工場をへて輸出される砂糖は、貿易統計では「工業製品」に分類される点である。タイの工業製品輸出比率が上昇していった重要な理由はここにある。そこで、砂糖や水産物缶詰、冷凍チキンなど加工品を、あらためて「農業関連品」として集計しなおすと、タイの輸出総額に占める農水産畜産物と同関連製品の比率は、一九七六年に七六%、八〇年時点でも五八%に達した。

韓国・台湾の経験とは、大きく異なっていたのである。もうひとつの重要な相違は、就業人口(タイの場合には経済活動人口)に占める第一次産業、つまり農水産業の圧倒的な比重である。タイの農業部門が就業人口に占める比率は、一九六〇年から八〇年の二〇年間に、八二%から七三%へと、わずかに九ポイント下がったにすぎなかった。他方、第二次産業(鉱工業・建設部門)の比率は四%から八%の上昇にとどまっている。農業人口の比率の高さは、一九八〇年当時、他の東南アジア諸国と比べても突出していた。タイは「農業の国・農民の国」だったわけである。輸出構造や就業人口構成をみる限り、タイをNICS型と呼ぶことはできない。それでは、タイの工業化パターンはどこに特徴かあり、なぜ相対的に高い成長を維持できたのか。私の考えでは、その特徴と理由は次の四つに整理できるように思われる。第一は、農産物やその加工品が、絶えず主要輸出商品の地位を維持し続けてきた事実である。

ハビビ効果

南スラウェシ州での総選挙運動におけるゴルカル党の戦術は、徹底的にハビビを前面に出すものであった。ゴルカル党と聞けばスハルトをイメージしてしまうが、南スラウェシ州の地元で人気のあるハビビならばスハルト・イメージを脱することができる、と踏んだからである。これは南スラウェシの特殊事情かもしれない。街中には、ゴルカル党の名前を入れずに「党を見るな、ハビビを選べ」とだけ書いた横断幕や、ハビビの顔写真入りの選挙ポスターが大小さまざまに貼られていた。そうしたポスターのなかには、ゴルカル党以外に、退役軍人らが作ったインドネシア独立支援連合党(IPKI)のものもあった。実際、たとえば、民族覚醒党は中央で反ハビビを鮮明にしているが、南スラウェシ州内のいくつかの県支部では、大統領候補としてハビビを推すところがあった。

また、五月三十日の日曜日の朝、マカッサル市内のロザリ海岸通りには、約二〇メートルの幕が路上に置かれ、若者たちがハビビ大統領の再選を求める署名をしていた。総選挙投票日直前に南スラウェシ州の地元紙が行なった世論調査では、大統領候補としてハビビを支持する者が七四%を占めた。注目されるのは、大学生の間でもハビビヘの支持が多数であったことである。前述のUMIの学生では約七割がハビビ支持と回答した。世論調査を担当した地元紙『ファジャール』の副編集長によると、ハビビを大統領候補にしている政党ならばどこでも勝てるほどの勢いだという。それほど南スラウェシでの総選挙におけるハビビ効果は絶大だった。では、ハビビ効果はなぜこれほどまで南スラウェシで強かったのか。

第一に、スラウェシへの経済危機の影響がジャワほどではなかったことがある。昨今の経済危機の悪影響は全国に波及し、スラウェシもその例外ではなかった。しかし、スラウェシは輸出向け農産品の種類が他地域より相対的に多く、しかもそれが小農経営主体で生産されているため、ルピア安は直接に輸出農家の所得向上をもたらした。その度合がジャワなどよりも大きかった分だけ、経済危機の悪影響をより相殺することが可能であった。スラウェシ全域が好調なわけではけっしてないが、平均すればジャワほどの悪影響は受けていなかったため、政権批判を促す状況にはならなかった。第二に、第一点とも関連するが、一九九八年五月以降の「レフォルマシ」下での地方政府の動揺が比較的少なかったことがある。村長などへの村民の抗議運動はジャワほど盛んではなく、一部県知事などの更迭はあったものの、地方政府の基本的な構造は以前と同様に保たれた。

地方政府からは、公務員がゴルカル党への表立った支持行動をしないよう強い要請が行政末端まで伝達されていたが、実際は公務員がゴルカル党の支援に関与した事例が数々指摘されている。そして第三に、「スラウェシ出身のハビビだからジャワ人の大統領の犯した過ちをしないはずだ」という期待がある。言論の自由、政治犯の釈放、そして四八政党が参加した総選挙の実施、どれもスカルノやスハルトの下ではできなかったものである、という評価である。ハビビ政権の中枢にはハビビをはじめ多数のスラウェシ出身者が入っているが、ジャワ大では必ず権威主義志向になってしまう、ハビビのような弱い大統領のほうが民主化にとっては望ましい、というのが当地マカッサルの知識人の見解である。

ただし、ハビビは半分ジャワ大(父親はブギス人、母親はジャワ人)である。インドネシア全体のなかで、今ほどスラウェシの位置が相対的によかったことはこれまでなかった、といえる。もしかすると、スラウェシには「新大統領がジャワ大になった場合、再びスラウェシはジャワの後塵を拝すだけの存在に成り下がってしまう」という思いがあるのではないか。もっとも、マカッサルではハビビを「おらが政治家」と受け取る雰囲気はない。「老後をドイツで暮らしたい」というハビビを地元民と見なす風潮もない。前述のハビビ支持は、スカルノ信奉者がメガワティに対するような熱狂的な支持ではけっしてない。「ハビビ」という記号に込められたスラウェシの思いが透けて見えるような気がする。

ヴェトナムで「政府」と意識されている組織体

選挙法が改正されて、法律上では共産党の「指導」なしに、独立候補が立候補できるようになった。議員の構成も大きく変化した。ドイモイ政策以前は、「人民代表者会議」だったので、農民・労働者の代表が過半数を占めていた。しかし、九二年の選挙では、農民・労働者の代表は二〇%以下になり、大学卒業者が飛躍的に急増して五五%を占めた。高学歴者を集めることで、討議の質を高め、立法機能を果たせる人材を養成しようとする意図が見える。実際、年を追うごとに、国会の立法能力は高まってきた。だが、国会議員といっても日本の議員とは、実態が異なる。日本の国会議員は、国から歳費を支給されて、議員活動に専念する「職業政治家」である。だが、ヴェトナムの国会議員には専従議員と非専従議員という二つのカテゴリーがあり、圧倒的多数は、非専従議員なのである。

すなわち、何らかの自分の仕事を持っていて国会議員に立候補して当選した人で、その職業は本業として継続して、国会開催中だけ、議員活動を行なう。いわば、パートタイマーとしての国会議員である。というのも、国会は春と秋の年二回開催されて、その会期も四日から一〇日程度なので、パートタイマーでも充分に国会議員の仕事はこなせる。しかし、立法作業が本格化するのに伴い、専従国会議員の割合を高めようという計画がある。従来は全体の一五%くらいだったのを、倍の三〇%くらいにしようというものである。だが、これは給与体系に密接に関係している。非専従議員は元来の仕事から給料を受けているので、国会議員としての職務を行なっている国会開催中だけ、交通費と日当を得ているに過ぎない。専従議員の給料は年間を通して支払われる。とはいっても専従議員でも月給は三万円くらいのわずかなものである。将来の課題として、専従議員は国会議員の給料だけで生活できる給与体系を確立する必要がある。

ヴェトナムでは、近代的な政治概念や政治組織を指す言葉は、明治時代に日本で翻訳された用語を輸入してヴェトナム語読みしている場合が多い。たとえば、自由、平等、幸福など、たくさん挙げることができる。Governmentの訳として日本であてられた「政府」という用語も同様で、ヴェトナム語読みでチンフーとして使用されている。だが、「政府」という言葉は、その言葉を使う歴史的背景によって、意味する組織は大きくこの考え方は、過去の王朝時代の伝統的な官僚システムから由来している。睨(グエン)朝時代には、皇帝を補佐する中央集権的な官僚機構が整備され、中央には六部・機密院という中央省庁が置かれ、地方には総督・巡撫が省知事として派遣された。中央の六部・機密院大臣と地方の総督・巡撫は対等の関係とされた。現在ヴェトナムで「政府」と意識されている組織体は、過去の王朝時代の六部大臣と機密院大臣(機密院大臣は四名で六部の長を兼任している)にあたる政府高官が形成する合議体をイメージしているように思われる。

政府と中央省庁および地方行政組織の概要を図で示す。注意しなければならないのは、五年ごとの党大会の後には中央省庁の改変が行なわれることが多く、いくつかの省庁が合併したり分離したりして、恒常的な組織ではないことである。政府・中央省庁の詳細な問題は別の書物(拙著『ヴェトナム現代政治』)に譲って、ここでは二点だけ注意点に触れておきたい。ヴェトナムでは統一的な公務員採用試験が実施されていない。各省庁が個別に実施しているが、それも公募による資格試験ではない。個人面談が主体の採用試験である。というのも、党員か非党員かという政治的な態度や、出身家庭がどういう階層なのかという、いわば行政担当能力以外の要素が重税されるからである。さらに、ヴェトナムの社会主義体制は財政的には外国政府の援助で成り立っているので、独自の税収による国庫という概念が成立していなかった。

それゆえ、各省庁が個別に集金しなくては省の仕事の運営ができないという現実があった。この佃別に採用する人事と財政的な面もあって、中央省庁といっても各省庁が独立国家のように自主権を持って管理されていて、省庁間の横の結びつきは薄い。「財務省一家」や「国防一家」と呼ばれるように、外郭団体として、ホテルやレストラン、旅行業まで手広く省庁が商売にかかわっていることが多い。家族や関連ある人々が働く場となっている。そもそも社会主義体制の下では、厳密に言えば、自由主義諸国が考える「司法」という概念はなかった。あくまでも勤労者人民が主権者であり、その利害を代弁する前衛党の共産党が権力を行使し、間違いや紛争が起こった場合には、共産党が主導する人民裁判で審判するのが基本だった。検察庁と裁判所は反革命勢力から社会主義体制を守ることを主目的とする機関であり、「人民の敵」を発見し、厳しく処罰するのを主任務とした。しかし、ドイモイ政策が採用され、対外開放政策が進んでいくと、外資導入を促進するためにも、国際ルールに合わせる必要に迫られた。とくに、「法の支配」が確立した法治国家であることが国際的信用を得るためにも必須条件であった。

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